春はあけぼの。
現世にいた頃、同僚が手記にそう書いたのを見せてくれた。
才女であった彼女が、くどい美辞麗句も使わずに素直に書きつづった言葉。

春はあけぼの、その意味が今ならよくわかる。
あの頃は、どの月も同じように見えていたけれど。

そんな、特別美しい月夜に、旧友が家を訪ねてきた。









「山本。……と、後ろに居るのは誰だ?」
「流魂街で拾ったのよ。お主に任せるから、世話してやれ」
「この子を育てろと……一応、私も隊長格で忙しい身なんだがな」


護廷十三隊総隊長の山本と、七番隊長の
外見年齢では五十ほど離れているが、実際のところはの方が年上だ。

随分と老けてしまった旧友のために、は酒を出してやる。
未だ山本の後ろにタ佇んでいる子どもには、緑茶を出してやった。
子どもは天蓋をかぶったままで、顔がわからない。


「山本、その子の名前は?」
「坊主、名前はなんという?」
「知らないまま拾ったのか、お前は」


子どもが口を開く前に、はつい突っ込んでしまった。
慌てて言葉を促すと、わからない、と子どもから小さな声が返ってくる。
親は、と聞くと、子どもは首を横に振った。


「生まれてすぐに捨てられたので」
「……そうか、悪いことを聞いた」


生まれてすぐに捨てられる赤ん坊は多い。
しかし、より瀞霊廷に近い地区であれば養い親となる者も居ないでもなかった。
子どもの居た場所は、東西南北320地区のなかでも一番治安の良い所だったはずなのだが。


「気を悪くしたら済まない。が、その編み笠を取ってくれないか?」


顔を見ないで育てるというのも難しい。
顔を隠すことに何か意味があるのだろうが、言わずにはいられなかった。
子どもは大きく肩を震わせると、恐る恐る笠に手を伸ばした。

音も立てずに、笠が床に置かれる。
笠に隠されていた頭部は、人型ではなく獣のものだった。

尸魂界で暮らして久しいが、狼頭の子どもを見たのは初めてだ。


「……犬神憑きか?」
「イヌガミ憑き?虚の一種か」
「この子が虚なら、お前が生かしておかないだろう?」


犬神は、特定の家筋の人間によって祀られ使役される犬、もしくは動物の霊である。
西方で広く信仰されているが、異形の存在など聞いたことがない。
だいいち、こういう憑キモノは現世の伝承であり、尸魂界には有り得ないはずだ。

人は、ただでさえ異種を排除する性質がある。
犬神憑きは人に害を及ぼすというから、現世から送られた流魂街の住民が気味悪く思うのも無理はない。


「だが、この子が犬神憑きであったとしても捨てられる理由にはならない」
「というと、この子はその憑キモノとやらではないのか?」
「違う。この子はただの子どもだ。……庇護され、愛されるべき子どもだよ」


三角の耳を撫でると、子どもは体をすくませる。
山本に保護されるまでに、色々と迫害を受けてきたに違いない。

は何度も子どもの頭を撫で、抱きしめた。










緊張の糸が切れ、眠りこけた子どもの頭に、一片の桜が舞い落ちる。
庭に植えてある桜は、山本がに贈ったものだ。


「万歳の美しさよな」
「ああ。あの時の山本の台詞は陳腐だったがな」
「ほざけ」
「……もう、何千年前になるんだろうな」


八千代の時を生き、気が付けば同期の死神はほとんど居なくなってしまった。
万物流転のこの世で、せめて、互いだけの友情は変わらぬように。
そう契りを交わし、ひ弱な桜木を植えた。
今では幹も太く、見事な枝ぶりに育ってくれたが。

再び夜風が吹いて、桜が散る。
と山本の杯に浮かべられた花弁を見て、はふっと思い付いた。


「狛村、左陣」
「坊主の名前か?」
「ああ。左近衛府の武官が詰めていた場所を左近の陣というんだ」


紫宸殿の階段の下、左側に植えてある桜。
左近衛府の官人は、この桜から南に列した。


「なるほど、が現世におった頃の……内裏、とか言ったかの」
「よく覚えてるな」
「現世は目まぐるしく変わるからの。退屈せずに済むわ」


確かに。
尸魂界に比べ、現世の移り変わりのなんと早いことか。


「狛村というのは?」
「同じ犬でも、狛犬は社で祀られていたりするんだよ」
「やれやれ、彼奴らの考えることは分からんわ」


山本が呆れたように言い、は苦笑を返す。
人間も、死神も、身勝手なのは変わらない。


「とにかく。左陣は私が育てる、それで良いんだろう?」
「うむ。立派な死神になるじゃろうて」


山本の言葉に、は返事をしなかった。

人狼であるということで、この先どれだけの偏見を受けねばならないのだろうか。
死神としての素質があっても、獣の姿ゆえに疎まれてはどうしようもない。


「……左陣は、生死を共にしてくれる奴を見つけられるだろうか」
「それは此奴次第よの。じゃが、そこまで心配することもなかろう」
「そうだな。独りで、生きてきたんだものな」


孤独の痛みを、苦しみを、辛さを、この子どもは十分に知っている。
だからこそ、この子はきっと、より優しく強く生きていくだろう。


「では、頼んだぞ」
「ああ。山本も忙しいだろうが、無理はするなよ」


山本は本来、義理堅く厳格な性格だ。
ただの気まぐれで捨て子を拾うことはしない。
ましてや友人に子を預けるなどとは考えられなかった。
総隊長という多忙な職務がなければ、己の手で育てたいところだろう。

そんな男が、自分に子どもを託す。
その信頼の重みを、は理解していた。










「……殿、」
「起きたのか。山本なら帰ったよ」
「拙者は、ここに置いていただけるのでしょうか」


捨てられることを知っている子ども。
その本能的な恐怖を知らないは、顔をしかめた。


「その口調は辞めろ、うっとうしい」
「……申し訳ござらぬ」
「謝る前に、まず聞くことはないのか?」
「は?」


子どもは顔を上げる。
目の前では、が薄く笑んでいた。

外見の若々しさにそぐわない、思慮深さに満ちた瞳。
手弱女のような美貌には不似合いな、圧倒的な存在感。


「お前の名は、狛村 左陣」
「狛村、左陣」
「そしてこの家は、私と左陣の家」
殿と……拙者の」
「あと一つ。一緒に暮らしていくんだから、殿は辞めてくれ」


名前を呼び捨てにするのも、師匠と呼んでも構わない。
左陣なりに親しみを込めて呼んでくれたら、それで良いから。

そう言って笑ったの背後には、薄く雲が掛かった朧月。
よく似合っている、と狛村は思った。