ドリーム小説
バイオリン用のものより短い弓を引けば、思い通りの音が流れ出す。
作られてから300年近く経つというのに未だ天上の音色を紡ぐ名器を、は慈しんで撫でた。
ストラディバリよりも知名度は下がるものの、独特の音色は至高のものだ。
JHS、イエスと記名されているのも、がこのヴィオラを愛用する理由の一つだった。
ストラディバリやアマーティのヴィオラは有名だが、グアルネリの作品は珍しい。
特に考えもなく、ヘンデルのメサイオを弾きながら歌を小さく口ずさむ。
聞きなじんだ音色、弓で弦を擦る感触。
ヴィオラもまた、自分の一部だ。
「凄いな」
「スピ」
スピット・ファイアはA・Tを履いているが、の足元はローファーだ。
おまけに、学校の帰りにエリアへ直行したから制服を着ている。
「このエリア、誰も知らないから気に入ってたんだけど」
「インドラとかニルヴァーナのエリアの近くにあるんじゃないかって思ってた」
「まさか、そこまで末期じゃないよ。俺らは無人境が好きだし」
「人が嫌い?」
「好きじゃないね」
「空夜とリョウは?」
「さあ?ライダーとしては憧れてるけど、人間としてはよく知らないから」
スピットが相手だからこそ言える本心。
その間も奏でる手は止めない。
次は、ハイドンの天地創造でも弾こうか。
「って時々冷たいよね。素っ気無いっていうか」
「いつも同じテンションじゃいられないって。演技してるわけでもないし」
猫を被るのも、仮面を脱ぐのも無意識でやっているに等しい。
一言で済ますなら、天性の八方美人なのだろう。
相手によって見せる姿は使い分けている。
人間とは、誰しもそういう本質を持っている。
スピットの前だけでなく、他人の前で感情的になることは少ない。
興奮したとしても、もう一人の冷静な自分は確かに存在する。
無心の境地になんて、そうそうなれるものではない。
敢えて言うなら、ヴィオラを弾いたりスプリントのときくらいだろうか。
頭の中は白く、その世界には自分独りだけ。
他人なんて、要らない。
けれど、そんな自分が、A・Tを履いて空を舞うときだけは、彼らの姿を宙に描き出す。
三割の真実と七割の願望で彩られた二人は、自分に無いものを全て持っている。
「ふーん。空夜とリョウのことを美化してるわけだ?」
「憧れなんてそんなもんだろ。スピは、こんな俺のこと責められる?」
返事はわかっているけれど、それでも問いかけた。
そして彼もそれを理解していながら、の予想通りの答えを口にする。
求めるものを与えてくれる。
にとって、スピット・ファイアという男は、そのために存在している。
本名も年も知らなくて良い。
ただ偽りと優しさを幾重にもオブラートに包んで、砂糖菓子のように甘く囁いてくれれば他は必要ない。
「何か弾いてよ」
「スピってクラシック知ってんの?」
「ベートーベンの運命くらいなら」
「あれはコレ一本じゃ無理だから。家路くらいならわかるんじゃない?」
「家路?何それ」
「聞けばわかるよ」
ドボルザーク交響曲第九番、新世界より第二楽章ラルゴ。
黒人霊歌やアメリカ−インディアンの音楽要素が詰まった懐かしい曲。
くすんだ渋みのある音色が郷愁を誘う。
「な、スピ。知ってる?」
「ん?」
「誰かを思って弾くのは、技術的な上手さを超えるんだって」
「へえ、真心はテクニックに勝るんだ」
「そう。だから、これはスピのために弾いてるから」
「じゃあ、ちゃんと聞かなきゃな」
夕闇のリサイタル。
聴衆は目の前の男ただ独り。
それだけで充分だろう。
彼を感じて紡ぐ音色は、どこまでも甘く柔らかい。