- 夕霧 -
「、……幸松丸!」
大好きで、どこか恐ろしくもある父の声。
彼が探しているのは兄上か、それとも無き従兄弟なのか。
「私はここに居ますよ、叔父上」
「おお、!」
兄上の、凜とした優しい声。
父上は、自分よりも背の高い兄上を抱きしめなさる。
私はそれを、物陰からそっと見ていた。
毛利幸松丸、父上の兄の息子、すなわち私の従兄弟であった人。
過去形なのは、すでに幸松丸は夭逝しているから。
では、今父上に抱きしめられている兄上は誰なのか。
「興元兄上が亡くなり、元綱も失ったというのに、までが居なくなったら我はどうすれば良いのだ」
「大丈夫ですよ、叔父上。私はここに居るでしょう?」
伯父の興元に使えていた忍の成田小五郎。
彼が連れてきたのが、浜辺に打ち上げられてたというの兄上だった。
兄上に初めてあったときの父上の顔を、私は一生忘れられないだろう。
「様は興元様に生き写しだ」
「幸松丸様とも齢が同じくらいであられるし……」
「否、むしろ様が幸松丸様ではないのか?」
ざわめく家臣たちの声。
成田の背に隠れながら、兄上は周囲の視線に耐えて毅然と座っていた。
父上が時々狂うのは誰もが知っている。
亡き兄を、亡き弟を、亡き甥御を求めて屋敷を彷徨う姿は、哀れで見ていられなかった。
そんな時に現れたの兄上を、父上は不自然すぎるくらいに訝しむこともなく受け入れた。
「よ、もう神隠しになど遭うでないぞ」
「……どうか安心してお休みなされませ。私は消えませぬゆえ」
「うむ」
幸松丸は神隠しに遭い、やがて天狗から解放されて帰ってきたのがの兄上。
奇計智将を恐れられた父上にしては、あまりにも強引すぎるこじつけ。
心の中ではそう思っていても、口に出す者は居ない。
矛盾を指摘してしまえば、再び父上は狂い出すだろうから。
だからの兄上でさえも、共犯となって幸松丸を演じ続ける。
「千代寿?まだ起きていたのか」
「あ、兄上……っ」
いつの間に後ろに回られていたのか、背後から声を掛けられて驚いてしまう。
怒られるのだろうか、そう思った私は、恐るおそるの兄上を見上げた。
けれど兄上は、口元を緩めて笑っている。
「別に私は怒るつもりはないよ。眠れないなら私の部屋に来るか?」
「良いのですか?」
「ああ。世間話でもするか」
「はいっ」
兄上が差し出してきた手を握りしめて、私は歩き出した。
「――――……隆元様、手が止まってますよ」
「あ。済まない、殿」
隆元が首を傾げて笑うと、は脱力する。
ここは後見役をして厳しく叱責すべきなのだが、ふにゃりと笑われてはその気も失せる。
「どうしたんだ、千代寿」
が家臣としての姿勢を崩して、隆元も次期当主としての態度を取り止めた。
筆を置き、茶をすすりながら天井の木目を見遣る。
「少し、兄上が毛利に来たばかりの頃を思い出していました」
「ああ。あれからもうどれくらい経つんだろうな」
水面の向こうを目指して必至に泳いで、やっと見えた空は青かったのを覚えている。
思いっきり息を吸うと、久し振りの酸素に肺が痛んだ。
浅瀬まで辿り着くと、体力の限界が来て浜辺に倒れ込んで立ち上がれなくなった。
そんな自分を助けてくれたのが、成田小五郎という、年と外見に差がありすぎる男だった。
「兄上は舶来から来られたんですよね」
「ああ……細かいことは覚えてないけどな」
図書室に居たはずなのに、気がつけば瀬戸内海を漂っていた理由は未だに分からない。
は今、どうしているのだろうか。
「の兄上、」
隆元がの名を呼ぶ。
その意図を汲み取ったは薄く笑って、障子の方へと顔を向けた。
「松寿、徳寿、隠れてないで入っておいで」
「気付いてたのかよ、兄上」
「隆兄ぃには気付かれてなかったのに」
「いや、千代寿も気付いてたぞ?」
松寿丸と徳寿丸は部屋の中に入ってきて、と隆元と向かい合わせに座る。
「入ってくるタイミングが掴めなかったのか?」
「たいみんぐ?」
「あー……部屋に入りづらかったんだな、と言いたかったんだ」
「それがたいみんぐ、とやらですか」
「そういう事にしとくか。で、二人ともどうした?」
はしゃぎすぎて国司にでも怒られたのか。
がそう聞けば、二人の幼子は頬を膨らませた。
そこまで子どもじゃないと言いたいらしい。
「明日から成人になんのに、そんな事しねーよ」
「そうだな。松寿はもう大人だもんな」
明日、松寿丸は元服して毛利元春となる。
烏帽子名をつける際に隆元の"元"を賜った時の松寿丸の喜びようは凄かった。
「毛利松寿丸元春。これまで以上に元就様と隆元様に尽くすのだぞ」
「はいっ!!」
「ずるいです春兄ぃ!の兄上、徳寿も隆兄ぃに尽くします!」
「頼りにしてるよ」
「はい、隆兄ぃ!徳寿もいずれは隆兄ぃの"隆"を頂きます!」
「だぞうだが、千代寿?」
「あはは、人気者ですね私は」
暢気に笑う隆元の両側に座り、松寿丸と徳寿丸はぎゃあぎゃあと言い合いを始めた。
これに隆元の妹で長女の可愛が加われば、長兄を巡っての喧嘩はもっと酷くなるに違いない。
たまに元就までも隆元争奪戦に参加するのだから、家臣たちは苦労が絶えない。
は片手でこめかみを押さえ、背後に潜んでいるだろう成田を呼んだ。
「……小五郎、いるか」
「は、ここに」
「宗勝と信直を呼んでこい」
「御意」
成田は忍びらしく音もなく姿を消す。
乃美と熊谷には申し訳ないが、この兄弟喧嘩を一人で止めるのは非常に面倒くさい。
隆元はいつも穏やかに微笑んでいるだけで、決して仲裁には入らない。
「あら、みんな揃って何してるの?」
「可愛も来たか……」
「え?ああ、隆元兄様を取り合ってるのね、私も混ざる!」
三つ巴から四つ巴になった姉弟喧嘩を見て、の頭痛は酷くなった。
- 帚木 -
「、隆景に好かれてんなぁ」
「それ本気で言ってんならシメるよ元親さん」
自分の動体視力の反射神経を誉めてやりたい。
左目横ぎりぎりを射抜いた矢を握りしめ、義理の叔父を睨みつける。
どすの利いた声に、さすがの元親も生命の危機を覚えた。
「おい、あの末っ子どうにかしろよ!!」
「……また、徳寿にやられたのか?」
「おかげで元親さんとお揃いの眼帯するとこだったわ!!」
「あー……そりゃ嫌だよな。徳寿、入っておいで」
「はい、兄上」
「ずっと外に居たのかよ?!」
叫び過ぎて痛む喉を押さえ、うな垂れる。
音一つ立てずに廊下に控えていた隆景も、それに気付きながら黙っていたも異常だ。
「徳寿、に矢を射かけるのは止めなさい。これでも一応大事な客人だから」
「兄上がそう仰るなら。申し訳ございませんでした、香宗我部殿」
小首を傾げて微笑む子どもが憎らしい。
だが、元就に瓜二つの少年に手を出すのも恐ろしい。
脱力したを残し、悠然と隆景は去っていった。
「良かったな、」
「良くねーよ!なんでアイツお前の言うことは大人しく聞くんだよ?!」
「従兄だからな。部活とか生徒会のときだって、に突っかかる奴は居ただろ」
「なんでかそういう奴らって、相手には素直だったよなー……」
声を荒げることもなく、かといって諂うこともない。
いつだって冷静沈着なは、にとって理想の部長であり完璧な生徒副会長であり、頼れるパートナーだった。
「お前は人懐っこすぎるからな。反抗期な奴らも出てくるんだろ」
大人びた笑みを見せ、は茶をすする。
どこか老成した雰囲気は独特のもので、だけでなく周囲の者も一目置いていた。
全体を見据え、客観的で公平な意見を述べるを、尊敬していた。
「なんかってブレないよなー。芯があるっていうかさ」
「芯があるのはだろ。たまに頑固だし?」
「うっせーな、言われなくても解ってるっつーの」
意地を張ってしまうのも、強情なところがあるのも否めない。
と居ると、余計に子どもな部分を自覚してしまう。
すでに過去の記憶と化した彼女も、こういうところが嫌になったのだろうか。
のように大人だったら、あの時別れを告げられなかったのだろうか。
未練はないが、落ち込む。
「……、口に出てる」
「マジ?」
「マジ。そろそろ昼飯だろうし、広間に行くぞ」
に続いても立ち上がる。
障子に手をかけたところで、がふと振り返った。
「はそのままで良いんじゃねーの?」
「え?」
「無理に大人にならなくても良いだろ、元親さんとかもそういう性格が気に入ってんだろーし」
「……〜!お前ほんっと良い奴!!」
「うわ、抱き着くんじゃねーよ気持ち悪りぃ!」
「これからもよろしくな、相棒!」
「……バーカ、」
肯定も否定もせず、はただ笑った。
了