- 終わらない春 -
「……外人さん?」
「なんでじゃい。俺はどっからどう見ても純日本人だっつーの」
「うっそだー!っていうか、なんで俺んちの前に居るわけ?」
「あれ、呂佳さんから聞いてねーの?」
が首を傾げた方向に利央も首を傾ける。
は、利央が桐青中等部生でキャッチャーだということしか聞いていない。というか、呂佳はそれ以外何も教えてくれなかった。
「あとは会ってみてのお楽しみだ」と言われても、向こうがこっちを知らないのではどうしようもない。
利央はというと、のことを色々と兄から聞いていたりする。
クレバーで正確無比なリード。心理戦に長けた頭脳派で、俊足巧打のオールラウンダー。
リトルでは全国でベスト8、シニアでも関東大会の決勝まで駒を進めたという輝かしい歴史を持つ。
そんな猛者と、目の前に居るモデル顔負けの美形とを、利央に結び付けられるわけがなかった。
「呂佳さんすげぇ美化して言ったな……ってか、俺はゴリラか?」
「だってキャッチャーって体格良くなきゃいけないじゃん!バッターだって大きい方が良いし」
「俺、お前よりはでかいんだけど?」
「うぅー……それよりっ!なんでそんなスゴい人がここに居るんだよっ?!」
「えーっと、今日から仲沢家に下宿するから?」
下宿、げしゅく、ゲシュク?
下宿とは、ある期間部屋代や食費などを払って他人の家の部屋を借りて生活することだ。
「……えーっ、俺んちで暮らすのぉ?!なんで!」
「四月から桐青の高等部に通うんだよ。でも実家からだと遠いし」
「俺そんなの聞いてないよ母さん!」
台所に走りこんで叫ぶと、皿を洗っていた母親が利央を振り返る。
「当たり前よ。あんたには話してないもの」
「ひでーじゃん、それっ!」
「だって利央はすぐ家を飛び出しちゃうし、居ても自分の部屋でゲームしてるじゃない」
「うっ!でも、」
「父さんも呂佳も知ってるわよ、知らないのはあんただけ」
簡潔に答え利央を撃沈させたあと、その後ろ、玄関口で立っているを見つけた彼女は少女のように華やいだ声を出す。
「いらっしゃい君!荷物はもう利央の部屋に運んであるから」
「俺の部屋?!」
「良いでしょ、あんた一人で使うには無駄に広いんだし。呂佳が家を出るまでの辛抱よ」
「それってまだまだ先じゃん!」
「文句言うならこれからご飯作ってやんないから。さ、君上がって」
母親は愛想よく笑い、を招き入れる。
も礼儀正しく、且つどこまでも爽やかに「お世話になります」と挨拶してから靴を脱いでリビングに入った。
一人取り残された利央も、慌てて二人の後を追う。
二人掛けのソファにと利央、向かいの椅子に母親が座り、それぞれの自己紹介を簡潔に済ませた。
「さん俺より二つ年上なんだ?じゃー和さんと一緒じゃん」
「和?あー、あいつ桐青だったっけ」
「和さん知ってんの?キャッチャー同士だから?」
「最初はそうだったけど、俺がショートにコンバートしてからも仲良いぞ」
「ショート?なんでぇ?桐青でもショート守んの?」
矢継ぎ早に質問してくる利央に、はキャラメル色の自分の髪を触ったあと、視線を上に移す。
どこまで話すべきか迷い、しばらく逡巡したあと、ふっと口元を緩めて笑う。
「腰を痛めて中学のクラブから戸田北のシニアに移ったんだけどな、その際に監督に薦められたんだ」
「へえー、イレギュラーバウンドの処理とか上手いんだ?」
「ノーコンピッチャーの速球受けなれたからなぁ」
一歳下の幼馴染は今頃どうしてるのだろうか。ほぼ喧嘩別れのような状態で家を出たものだから、少し心配だ。
バッテリーを組まなくなっても、学校が変わっても、お隣さんじゃなくなっても、この関係は変わらない。
スピードは速くなっていくくせに全くコントロール力が成長しないことや、負けん気な性格、固めの黒髪、吊りあがった目。
全部が全部愛おしい。そう言えるようになったのは離れたからだ。
これからも自分たちは兄弟のようにじゃれ合って、笑いあって、ずっとそのまま。
そう信じているから、あんな辛い顔は二度と見たくない。
「さん?」
「ん?って俺のこと?」
「そ。だからさん!良いっしょ?」
「そうだな」
蜂蜜色の髪の大型犬は無邪気に笑う。利央が犬ならば、あの幼馴染も犬か。
呂佳のように、「この人に付いていこう」と思わせる大きさはないけれど、利央もまた人に好かれやすそうだ。
「で、高等部ではどーすんの?」
「マネージャー兼コーチってとこかな」
「マネぇ?」
「そ、マネ。呂佳さんだけだったんだ、マネでも良いから来いって言ってくれたの」
選手としてなら、それこそたくさんの選択肢が用意されていた。
けれど、グラウンドに立つのはこのチームで最後なのだと、シニアに入ったときに決めていたから。
この怪我のせいで自分の性格もだいぶ変わってしまった、と思わず苦笑してしまう。
甲子園に一緒に行こうだなんて夢見ていた日は、もう遠い。
「あ、そーださん!午後から練習試合あるから観にきてよ!」
「利央出んの?」
「準さんっていう人とバッテリー組んでんだけど、先発なんだ」
「ちょっと利央!午後からは部活休みなさいって言ったでしょ?!」
「さんに会えたんだから良いじゃん!ね、さん?!」
仲沢母子に見つめられて、ぎくりと体が強張る。
呂佳は見抜いてたのだろうが、は自分より年下の者には弱い。幼馴染がなぜか怒り出すほど、後輩なら甘やかしてしまう癖がある。
そんな性格を自覚しているというのに、利央の上目遣いに負けないわけがなくて。
「和とか慎吾が来てんなら行くよ。山ちゃんにも会いたいし」
「やった!さんのこと準さんに自慢してやるんだ!」
「もう利央ったら!君、ごめんなさいね」
「いえ、俺こそわがまま言って済みません」
マダムキラーと称された、ホストばりの笑顔は利央の母親にも効くらしい。
すぐ隣で利央が「タラシ」と呟いていたのを聞き逃さなかったは、利央の両頬を思いっきり引っ張ってやった。
「いひゃいよさんっ!」
「俺、この外見のせいで野球部員だって信じてもらえないの、コンプレックスなんだよ」
「野球部って坊主とかショートのイメージだからしょーがないじゃん!」
「お前だって坊主じゃねーだろ!とにかくタラシとか遊び人とかホストとか言うなよ!」
「……そんなこと言われてたんだ?」
「まーな。じゃ、そろそろ連れてってくれよ」
「うん!早く行こっ!」
「腕引っ張んなよ!忘れ物とかは大丈夫か?」
「母さんみたいなこと言わないでよ!」
利央に引きずられて家を飛び出す。振り返ってみると、中沢家はやはり大邸宅だ。
今日からはここが第二の我が家。利央は第二の弟代わり。
これからもっと、たくさんの人に出会い、笑いあり涙ありの日々が待っているのだろう。
「さん!」
「前見て走らねーとこけるぞ!」
利央は中1、は中3。温かい日差しの、春休みのことだった。
- 無言の恋情 -
「おはよー」
「おはようございまーっス!」
キャラメル色と蜂蜜色。明るい髪色をした二人が入ってくると、途端に部室の中が騒がしくなる。
「チーッス、さん」
「おはよ、迅。今日も元気が良いなー」
髪に手を入れ、軽くなぜるようにくしゃりと掻きまぜると、迅は嬉しそうに笑う。
構ってもらえて喜ぶ後輩の姿に、の口元にも笑みが浮かんだ。素直な後輩というものは可愛い。
「うぃース、さん」
「おはよう準太」
もちろん、この気高くてしなやかで少し口の悪いエースも可愛くて仕方がない。
寝癖の付いた黒髪を撫でてやると、準太は恥ずかしそうにの手を払った。これでは母親と子供のようだ。
「おはよーございますさん」
「おはよ、タケ。和も慎吾も山ちゃんも、みーんなオハヨ」
「ー、俺ら3年だけ纏めんのって酷くねぇ?」
「だって人数多すぎんだもんよ。後輩にはちゃんと返さなきゃだし」
「さん、おはようございます!」
「おー、おはよ。今日も練習頑張ろうな」
後輩たちには律儀に挨拶を返していく。
マネージャーという身分ながら、その人気ぶりはレギュラーに勝るとも劣らない。
実力だけが全てではないが、やはりレギュラーというのは一種のカリスマ性と憧れられるものがある。
の場合は、その的確な観察眼が部員たちの尊敬を集めていたりする。
「んじゃグラウンド20週走ってこーい!終わったら肩慣らしだから」
「てめぇも走れ、!」
「慎吾ー、俺はマネジだってのー!」
列を乱さず、足並みを見てもよくまとまっている。だらけて走る部員は一人もいない。
最初は戸惑うことも多かった1年も、今は上級生に付いていけている。
大きな掛け声が遠ざかっていくのを聞きながら、は一人部室で制服のネクタイを解いた。
部員はランニング、女子マネージャーたちが準備をしている間でなければ、人目を気にせず着替えられない。
ブレザーを脱ごうとして腕を動かしただけで、背中に電流が走る。
「っ、」
「大丈夫っスか、さん」
「準太?!おま、ランニングは?」
「和さんに許可貰って抜け出してきました。薬塗るの手伝いますから、貸して下さい」
「や、エースが抜けちゃダメだろ」
「さん、」
黒々と輝く瞳に吸い込まれそうになる。だから、きっと、今の自分はとても情けない表情をしているんだろう。
準太の顔は真剣そのもので、の心臓を締め付ける。柔らかく、優しく、窒息させられていく。
眦に滲み出るその感情は、今の自分には重過ぎる。
「…………………………じゃ、頼むわ」
「はい」
後輩を、しかも同性を前にして、タンクトップを脱ぐ手が震える。背中に向けられる視線が熱い。
巻いていた包帯を取ろうとすると、他人の硬い指先が自分の肌に触れた。
「準太?」
「俺が取りますから、そこのロッカーに手ぇ付いてください」
「わかった」
自分の息遣いがうるさい。準太はどこまでも落ち着いているというのに、自己嫌悪に陥りそうになる。
アスピリンが入った軟膏は無情なほどに冷たくて、けれど準太の熱で中和されていた。
蔦か蛇のように背中を這い回っている赤黒い傷跡を見て、彼は何を思ってるんだろうか。
「さん、俺、この傷跡嫌いです」
「そりゃ、こんな醜いのは俺だってヤだって」
「この傷がさんから野球を奪った。それが許せない」
「……なーにクサいこと言ってんだか。準太は顔が良いんだからギャグになってねーぞ」
「さんっ?!」
「良いんだよ、俺は。だから準太が怒る必要はない」
振り返ると、プライドの高い彼が見せたくないであろう表情が目に入った。
泣き出しそうな、喉まで出かかった何かを無理やり飲み込んだ顔でも、準太は十二分にかっこいいと思える。
女子が騒ぐのも当たり前か、とは自分のことを棚にあげてぼんやりと考えていた。
「準太」
「さん?」
「お前身長伸びすぎ。入学したての頃は俺よりちっちゃかったくせに」
「せめて背くらいは追い抜きたかったんスよ」
「焦らなくて良いんだぞ?俺はここに居るんだし」
背伸びをしてやっと抱きしめられる後輩。手が届かなくなるのもそう遠い未来じゃない。
それよりも前に、卒業という形で道は分かれるのかもしれないけれど。
「その怪我って、榛名を庇ったときに出来たんでしょ」
「庇ったわけじゃなくて、中学の顧問と言い争ったときに転んだだけだって」
「突き飛ばされて、上から額縁が落ちてきたの間違いじゃなくて?」
「わかってんなら今更言うなって」
拗ねた準太の機嫌を取るのは難しい。猫を相手にしているような気がすると言えば、彼は怒るだろうか。
古傷が悲鳴を上げているけれど、それよりもすぐ傍に感じる体温の心地よさにほっと息を吐く。
そっと背中を叩いてやると、抱きしめてくる力が強くなった。
「そろそろ練習行くか」
「あんま無理しないで下さいよ」
「準太には敵わないなぁ。いっつも俺の弱ったところ見抜かれてるし」
「さんだから気付くんです。いい加減解ってください」
「ん。知ってるよ、俺だって準太のこといつも見てる」
「博愛主義じゃなかったっけ」
確かに、は自他共に認める博愛主義者だが。1年も前に言ったことを、未だに覚えているのか。
「他の奴を見てたって、準太が特別なのは確かだからさ」
「榛名は?大切な幼馴染なんだろ……っ」
「準太!」
腕を突っ張って準太の胸を押すと、簡単に体が離れた。
傷ついたような表情をする準太に、は宝石のように冷ややかな視線を送る。
「俺が信じられねーのか?」
「さんはっ、嘘をつくのが上手いから信じられなくなるんだよ」
「……まぁ、お前に対していつも正直だとは言えないしな」
嘘を信じ込ませるのも、真実を伝えるのも上手いほうだとの自覚はある。それがこんなところで副作用を起こすとは。
恋心というものは実に複雑で、悪いことばかりを考えがちになり、我を失ってしまう。
内心何かを悟りながら、は目の前の彼に浴びせる蜜の言葉を考えていた。こんなときでも冷静に働く頭に苦笑する。
「準太、とりあえず朝連しようぜ?」
「さん?!」
「今日は二人でファミレスでも寄って色々話して、それでも無理だったら準太んちに行く」
利央が居る前では、こんな話はできやしない。第一、と準太は恋人ではないのだから。
少なくとも、今のところは、だが。
が隙のない笑顔を浮かべると、準太は恨めしそうに睨み付けてきたけれど、ついに折れた。
「さんには一生勝てそうにねーな」
「そりゃ一歳差でも年上は年上だからな。そろそろタメ口止めろよ?」
「うぃーっス」
「ん、良い返事だな」
聞き分けの良い後輩の頭を思いっきり撫でてやると、今度は手を振り払われなかった。
了