- My dear...friend? -
「その言葉、取り消してください」
「な、なんだよお前」
「今の、ウチの部員をけなす発言を取り消してください」
徠深が怒る姿を見たのは、あれが二度目だったように慎吾は思う。
確か高等部一年の夏、どこかの高校との練習試合が終わったあとの事だった。
いつものように桐青は危なげなく快勝して、スタメンに入っていた慎吾も得点板を満足した気持ちで眺めていた。
「ちょっと良いですか」
徠深が何を言われたのかはわからない。けれど、少し陰口を叩かれたくらいでカッとなる性格でもない。
そんな徠深を知っていたから、突然のことに驚いたのは和己も同じようだった。
徠深の傍に居た山ノ井が必死に徠深の腕を掴んでいたが、徠深自身はどこまでも落ち着いているように見えた。
それが、かえって恐ろしかった。
「俺のことはなんとでも言えば良い。でも、慎吾をけなすのは絶対許せねぇ」
「え、俺?」
「そーだよ、お前が原因なんだから何とかしろ!!」
山ノ井の焦った声に、慎吾も焦る。
「ユキ、落ち着け」
「俺は嫌なくらいに冷静だけど?」
「何キレてんだ!お前!」
「呂佳さん……」
主将の呂佳に怒鳴られて、徠深も顔を俯かせる。
初めて見た徠深の態度に、呂佳は頭を掻き毟ってから相手の部員を見た。
何もしなくても呂佳の顔には迫力があるのに、軽く睨まれると凄みが増して相手はたじろいだ。
「ウチのマネージャーがすいません」
「は?あ、ああ、後輩の躾ぐらいちゃんとしとけよ。マネは大人しくドリンク作ってれば良いんだよ!」
「何も知らねぇ奴がごちゃごちゃ言ってんじゃねーよ!ユキはお茶汲みじゃねぇ!」
思わず口を突いて出た自分の言葉に、慎吾は顔から血の気が引く。当事者の徠深でさえ、瞳を大きく見開いていた。
相手の部員よりも、自分のところの主将の方が何十倍も恐ろしい。
しかし、意外にも呂佳はげらげらと豪快に笑って慎吾の背中を思いっきり叩いた。
「お前の言う通りだな。こいつはただのマネジじゃねぇ、正論だわ」
「ろ、呂佳さん?」
「間違ったこと言ったわけじゃねーから謝る必要もねぇ。じゃ、みんな帰るぞ」
「う、ウィース」
固まってしまった相手を放り出して、呂佳は徠深の肩を抱いて歩き出した。
「――あん時の呂佳さんはかっこ良かったよなぁ」
「えー、兄ちゃん良いとこ取りじゃん」
「こーら、慎吾と利央はなんの話をしてるのかなー?」
「いっ?!ってーよ、ユキ!」
どうして自分だけ全力で頭を殴られて、利央は軽く口を捻られるだけなのだろうか。
それが徠深なんだとわかってはいるけれど、と慎吾は頭を抑えつつ笑った。
徠深が手を出すのは、より自分を理解してくれていると認識した人間だけだ。そして、庇護の対象ではなく、肩を並べられる人間でもある。
口にしてしまえば自惚れんなと一蹴されてしまうだろうが、それは真実。
徠深の、利央や迅に対する猫可愛がりようは、おばあちゃんが孫を溺愛するのとどこか似ている。
エースらしいといえば聞こえは良いが、プライドが高く妥協を許さない準太への、愛情の注ぎようも半端じゃない。
難儀な性格の人間ほど放っておけずに構ってしまうのだろう。だからこそ、徠深の周りには人が溢れかえる。
「今日は遅かったな。放課後に委員会でもあったか?」
「あー。和、俺のこと遅刻扱いでいいから」
「俺さっき、ユキさんが女の子と歩いてるの見ましたよ」
「タケ、誤解を招くような言い方はやめなさい。準太も怒らない!」
「なんか荷物を運ぶの手伝ってるように見えたんスけど」
「……ウチのクラスの委員長、足に怪我してんのに無理してたからさ」
隣のクラスの慎吾や和己はおろか、同じクラスの山ノ井さえ知らなかったらしい。
「あの子怪我してたんか?」
「捻挫したらしーけど、先生も気付いてなかったみたい。なんか見てらんねーじゃん?」
「優しーな、ユキは」
「山ちゃん、それ誉めてんのか?」
「誉めてるから、笑顔でメニュー追加しようとすんなって!!」
「あっそ」
徠深のことだから、強引に荷物を奪って運んだのだろう。それでいて善意の押し売りのようには感じさせない。
「その彼女、今頃キャーキャー言ってんじゃねーの?」
「ユキ君に手伝って貰っちゃったー!って?」
「慎吾も準太も楽しそうだなー?」
「ちょ、ユキさん今メニューになんか追加したでしょ?!」
人を振り回すだけ振り回す優しい人。
それが、慎吾のXXXである徠深なのだ。
- Black-coated-retriever -
毎日、夜の11時に届くメール。
今日はいつもよりコントロールが良かったとか、小テストの点数が壊滅的だったとか。
少しの絵文字と句読点を使った、やたらと自分の名が入った文面を見て笑ったあと、返信してベッドに入る。
このフォルダは彼専用にしてあるけれど、そろそろ何通か削除しなければいけない。12時ぴったりに送られてきたバースデーメールが消えたら困る。
「おやすみ、元希」
中学までは窓枠越しに挨拶をしてから寝ていた。未だにその習慣は抜けきっていない。
一つ年下でバッテリーを組んでいた幼馴染。このまま二人で甲子園に行くのだと夢見た日は、もう遠い。
「お願いします、元希を休ませてやってください」
「アンタ、指導者ならガキのことぐらい気遣ってやれよ!」
「エースが活躍すればアンタの名前も売れるからって元希を好き勝手すんじゃねーよ!」
榛名のフォームに違和感を覚えて、監督に忠告しに行って口喧嘩になって。
元々徠深の茶髪を気に入らなかった彼は、たかが中学生の罵倒で頭に血が上り、徠深を突き飛ばした。
ロッカーに背中を打ちつけ、落ちてきた額縁やボールの籠で背中を傷付けられた。
吐き気さえ催したその怪我は痣となり、今も背中から腰にかけて赤い蛇のように這っている。
事態を収拾するために野球部を辞めて、戸田北のシニアに入って。
まだキャッチャーに戻れるほどには回復していなかった腰。18.44メートル先に居ないピッチャー。
俊敏さと捕球力を買われてショートにコンバートすることに、なんの文句も無かった。
「半月板損傷?!そんなに悪かったのか」
「そー。それ言ったら監督に見捨てられた」
家が隣同士で、自分の部屋の向かい側が相手の部屋。そんな、とても近い幼馴染は、徠深の心配をよそにケロリとしている。
「俺も部活辞めて、シニアに入る」
「俺、今はショート守ってんだぞ?」
「知ってるって。クラスでシニアの奴が誉めてたもん。徠深サンすげぇー!って」
野球の神様は自分を見捨てないでいてくれたらしい。キャッチャーだけでなくショートの方でも上手くやれている。
イレギュラーバウンドについては、目の前の幼馴染のおかげで動体視力と反射神経とボディバランスを鍛えられていた。
キャッチャーの肩の強さは決して不利にはならない。
「徠深サンが守ってくれてるとすっげー心強いってさ。俺も、徠深さんのリードが一番だったし!」
産まれてから今までの十数年間、ずっと見てきた幼馴染の思考回路も癖も知り尽くしている。
リードなんてサインが無くても出来たかもしれない。さすがにコースの指示無しを実行したことはないけれど。
「徠深サン、今度からは俺の後ろで守ってよ!」
「……わかったよ、だから元希は安心して投げな」
「やった!!」
「じゃ、おやすみ元希」
「おやすみ徠深サン」
いつものように挨拶を交わして、窓を閉めて、ベッドに入る。その習慣は、徠深が桐青に入るまで変わらなかった。
「ユキさーん、起きてる?」
「っ、利央。どーした?宿題すんの忘れてたのか?」
傷は、精神状態に左右される。記憶力が良すぎたりすると、嫌な記憶と痛みまで呼び覚ます。
一瞬走ってすぐに消え去った痛みで、徠深は返事をし遅れた。
ドアのところから顔だけを覗かせる利央を手招きで呼び寄せる。
「明日の家庭科が調理実習なんだけどさぁ」
「エプロンなら、お前の部屋の箪笥。上から2段目の右側」
「あ、ホントに?」
本当も何も、利央の洗濯物を片付けるのは徠深なのだから。
「……いつになっても世話焼きのままかよ」
「え?」
「や、なんでもないって」
利央も榛名も、手のかかる可愛い弟だ。
了