- 傍に在ること -
「、起きろや」
「ん……」
高い天井と砂壁。
床の間に飾られた水墨画が視界に飛び込んでくる。
体を起こそうとすると腹が痛んで、は舌打ちをした。
「どっか痛むんか?」
「。今日も別嬪やな」
「いっぺんと言わず死んでこい」
は顔をしかめたが、そんな表情でさえも絵になる。
あの美貌は世界遺産だとまで言われているだが、その無表情を崩せる者は少ない。
豆粒くらいの大きさでしか写っていない、しかも喜怒哀楽の無い真顔は斜め向こうを向いている。
そんな隠し撮り写真でさえ高額で取引されるくらいだ。
満面の笑みなど見れたら、それこそ世界がひっくり返るだろう。
そんな事を考えながら、は布団から這い出た。
洗顔用にタオルを手渡してくれるを新妻のようだと思うのは、今に始まったことじゃない。
「、ピアスの穴増えた?」
「ああ、この銀のヤツな。もつけるか?」
「……ええわ。シャンプーのとき面倒やろうし」
銀色の髪も、耳に装着してあるピアスも見慣れた。
はそれらを痛々しいとは思わない。
の耳にあるピアスの穴の大半は、が開けたものだ。
歯を磨きながら、の分の歯ブラシにも歯磨き粉を伸ばしておく。
濡れた顔をタオルで拭き終わったに歯ブラシを渡すのにも慣れた。
「今日は家に帰るんか?」
「んー……わからん」
「そっか」
の家庭が複雑で、どうしようもない状況だったりするわけではない。
ただ親子喧嘩がとても激しく、がの家にやって来るのは日常茶飯事だ。
決して親子の仲が悪いわけではなく、むしろ似たもの同士だから派手な言い合いになってしまう。
親と喧嘩したことのないにはわからない感覚だが、を拒否したことは無い。
がここに居て落ち着くのなら、自分は受け入れるだけのこと。
ただ、それだけの話だ。
「で?」
「ん?」
「なんで腹にケガしたんや?」
「んち来る前に、街で喧嘩ふっかけられてもた」
「サシか?ってか勝ったんか?」
「5対1やけど余裕で勝てたわ」
「勝ったからえーものの、こんなでっかい青あざ作ってくんなや……」
銀髪に、じゃらじゃらと着けられたピアス、目立つ容姿。
不機嫌なが街中を歩いていて、誰かに絡まれる姿が目に浮かぶ。
Tシャツを捲りあげると、わき腹に大きな青あざができていた。
むしろ負傷した場所がわき腹だけであったことに感心すべきかもしれない。
血に染まる包帯、腫れ上がった頬に打撲した足。
が荒れていた頃は、生傷が絶えなかった。
「なあ、今でもチームの奴らに会ったりするんか?」
「会うことはあるけど、俺はもうアイツらのヘッドちゃうしな」
当時の一大勢力となった不良少年グループ。
はそのリーダー格で、今でもを慕うものは多い。
その頃の話になると、の視線は一転に集中する。
の鎖骨の下に走る傷痕は、未だに生々しくその存在を主張していた。
「傷、見せて」
「どうぞ」
の手が着物の袷を割り、盛り上がった皮膚を指の腹でなぞる。
むず痒い感触にが息を漏らすと、はの肩に顔を押し付けた。
たちのグループの争いに巻き込まれたときに、ナイフで出来た斬り傷。
を傷つけたのはではないが、それが原因ではグループを抜けた。
自分がどんなに荒れようと、この綺麗な幼馴染だけは傷つけまいと決めていたのに。
「守ってやれんでゴメンな」
「アホ、俺はお前のお姫様とちゃうぞ。守ってもらう必要なんてないわ」
「そうやな。……でも、守らせて」
「しゃーないな」
はの髪を手で梳く。
その髪は、とても傷んでいた。
「ブチョー、お誕生日おめでとうございます!」
「は?え、俺、今日が誕生日やっけ?」
「気付いてなかったんかい。正真正銘、今日はお前の14歳の誕生日やろうが」
クラッカーを打ち鳴らした忍足に言われて、初めては気付く。
その隣ではが思いっきり呆れていた。
「は気付いてたんか?」
「気付いてたってゆーよりは覚えてたんや」
「あ、そうなんや」
「お前、俺の誕生日も忘れてるんちゃうやろな?」
「んなわけないやろ。の誕生日を忘れるはずないわ」
「なんで自分の誕生日より先輩の誕生日覚えてるんですか……」
「お、白石」
「部長、誕生日おめでとうございます。コレ俺と謙也からですわ」
1年レギュラーコンビの二人から手渡されたのは赤い紙袋。
覗き込んでみると、入浴剤と小箱が一つ入っていた。
「なんで入浴剤なんか聞いてもええか?」
「白石って健康オタクでしょ?最初コイツ健康グッズ買おうとしてたんですよ!」
「でも謙也に止められてもて。んで、入浴剤です」
「ゲルマニウムとかじゃなくて草津とか別府のヤツで良かったわ……」
忍足の判断は正しかったと思う。
筋トレは嫌いじゃないが、ダンベルを貰っても嬉しくはない気がした。
「なー、。今日の入浴剤なにがええ?」
「なにがええって言われても、草津とかぐらいしか知らんのやけど」
「じゃあ草津でええか」
「あの、部長」
「ん?なに、謙也」
「なんで先輩に聞くんですか?」
「だってんちの風呂にコレ入れるわけやし」
の中ではそれが当たり前だったわけだが、忍足はとうぜん脱力する。
だから、どうしての風呂に入るのが前提なのだ、と。
二人の会話を聞いていた白石が、の方を向く。
「部長って、しょっちゅう先輩んちに泊まってます?」
「週に一回は確実に泊まっとるな」
「……ほんま仲ええですよね」
「どうなんやろ。むしろ最近は泊まりに来るってより帰ってくるって感じやからな」
そう呟いたの表情は、いつもより柔らかい。
こんな顔をさせられるを、白石は別の意味で尊敬する。
いくらが超のつく美形だとしても、幼馴染み相手に別嬪という言葉を多用しない。
白石や忍足だったらそうするだろう。
しかしはなんの恥じらいもなく、当たり前のように別嬪だの美形だのとに言っている。
「やっぱ部長らって特殊ですわ」
「白石、お前そんなに部長職譲ってもらいたいんか?いつでも譲ったるぞ」
「いえいえ結構です。ってか部長まだ2年でしょ」
「俺は1年の時に押しつけられたんや。だから俺もお前に押しつけたる」
「そんな負の連鎖続けんで下さい!」
と白石の言い合いが始まると、忍足はのもとへ避難した。
は悠然と構えていて、が手にしたままの赤い紙袋を気にしている。
「なー謙也、あの紙袋んなかって入浴剤だけなん?」
「入浴剤は白石からのんで、俺のプレゼントは別に入ってるんですよ」
「そうなん?やったらに見てもらうべきちゃうか」
「でも俺、あの中に割って入る勇気ないですわぁ……」
他の部員たちも忍足同様に傍観者に徹したいらしい。
1年はともかく、2、3年まで触らぬ神に祟りなし状態はどうなのだろうか。
少なくとも3年生は、やよりも1年長く生きているはずなのに。
部員たちの視線はに集中する。
その目に込められているのは、あの二人を止めてくれと言う懇願。
こんな時に限って渡邊は不在で、なんのための顧問なんだと思ってしまう。
「オサムちゃん、使えんへんなぁ……」
「先輩、それは正論ですけど。それよりも」
「わかっとる。……」
「ん、呼んだ、?」
「謙也からのプレゼント見たったら?」
「あ、そうやな」
一瞬にしてを止めたに讃辞と尊敬の眼差しが集まる。
個性派のテニス部員たちだが、こんな時ばかりは団結するのだった。
やがて、小箱の中身を見ていたが顔を上げた。
「なー謙也、このリング俺には合わへんわ」
「え、気に入りませんでした?」
「デザインはめっちゃ好きやけど、指のサイズがちっさいんや」
そのシルバーリングは確かに好みのデザインをしていた。
しかしサイズが合わないと聞いて、忍足が焦る。
実際に嵌めてみても、小指にしか入らない。
「小指につけるんはちょっとなー……」
「それならネックレスにしとけばええやん」
「そっか。でも俺ってチェーン持っとったっけ?」
「持ってなかった気がするわ」
「……なんで先輩が部長の持ちもん把握してるんですか」
忍足の呟きは小さすぎて、白石以外の誰にも聞き取れなかった。
***おまけ***
「あれ、先輩その指輪……」
「ああ、これか」
「それって俺が部長にあげたヤツですよね?」
「ちゃうちゃう。謙也があげたんはが持ってんで」
「え、じゃあ先輩のんは?」
「なんか同じデザインのが1個だけ売ってたからって、がくれた」
「だからって左手の薬指に嵌めますか……」
- 陽はのぼり繰り返す -
「さん、今日家に泊めてくれません?」
財前光という2歳下の後輩はいつも飄々と我が道を行く。
当時は1年生で唯一のレギュラーだったが、2年になった今でも上級生の強烈な個性に負けず自若としているようだ。
忍足はそれを生意気だと怒りつつも可愛がっているが、に対しては流石の財前も従順になる。
携帯を握りながら、電話越しの後輩に聞こえないよう溜息を吐く。
「わかった、泊めたるわ」
「すいません」
「ほんまやで。光、俺んち知っとるか?」
「前に行ったん小学生の時やし、忘れてもたっスわ」
もも、財前や遠山と同じ道頓堀第一小学校の卒業生である。
「んじゃ中学まで迎えに行ったるから、部室におりや」
「わかりました」
「じゃ、また後でな」
電話を切ったあと、は発信履歴の一番上を選んで通話ボタンを押す。
この家には、大人数が布団を敷いて寝られるほどのスペースはない。
「みんな、着いたで」
「……、俺も白石らも全く意図が掴めとらんねんけど」
海松色に藤袴が描かれた着物姿で、たちを出迎えたは呆れ顔をして言い放つ。
対して、を除いた後輩4人は、の着物姿と背後の豪邸に圧倒されていた。
「白石、ここって大阪で一番土地代高い住宅地やろ?」
「ああ、一坪なんぼするか考えたくもないわ」
「大きな屋敷ばいね。ここらで一番立派ったい」
「さんち、元公爵家やっちゅーの忘れてたスわ……」
公爵というのは五等爵の第一位である。
昭和に廃止されるまでは世襲的身分階級にある、いわゆる華族であった。
「の家はここらの大地主やもんな。由緒ある旧家ってわけや」
「今の時代、血筋で左右されることなんざ滅多にないけどな」
築山、遣り水、鹿威し、石灯籠、飛び石。
玄関まで続く長い石畳に、整えられた紅白梅や桜、竹林、楓など四季の木々。
ドラマの中でしか見かけることのない光景に怯まないのはのみだ。
広い屋敷の奥、池に面して建つ離れへと続く渡り廊下を歩いて行く。
「あれ、、部屋変わったん?」
「さんも高校生やし、あの部屋じゃ狭いでしょって母さんがな」
「俺の部屋5コくらい入るやろ、あの部屋」
「今の部屋は前の3倍くらいあるんちゃうか」
「あー、テニス部で合宿できるやろってくらい広かったな」
「お手伝いさんたちが5人がかりで掃除してくれるんよ。に言われて、5人分の布団は用意してもろたけど」
「先輩って、家柄まで完璧っちゃね」
「羨ましいような、スケール大きすぎて僻まれへんというか……」
千歳と白石の言葉に、は足を止めて振り返る。
「俺は、の方が羨ましいわ」
「先輩が?」
全員の視線を一手に受けたは、を見た。
「なんで俺が羨ましいねん。勉強も家柄も顔もの方が上やろ」
「……そういうが羨ましいんやろな、俺は」
は答えをはぐらかし、離れの戸を開ける。
こういうときのは、意地でも本心を明かそうとはしない。
「さ、狭い部屋やけどどうぞ」
「十分広いですやん」
「謙也くんの言う通りスわ……」
も入れて6人分の布団を敷いても和室にはかなりの余裕があり、襖の向こうには浴室とトイレが別々に備え付けてある。
へたなホテルよりも広く、設備も良い。
感嘆されることに慣れてしまったは、家政婦に緑茶を頼んだ。
「で?光が家出した理由は?」
の家を我が家のようにくつろぎながら、は悪戯っぽく笑う。
夜が明けるまで、財前の取り調べは終わらなかった
了