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見覚えのある、焦げ茶の髪。
憧れてやまなかった、大きな背中。
5という数字が、どれだけ眩しく見えたことか。
「先輩!」
「ん?……風祭か、久しぶりだな」
1軍や3軍なんて関係無しに先輩を敬い、同級生を信頼し、後輩を可愛がる。
誰よりも自分に厳しくて、サッカーと真正面から向き合っている人だった。
「お久しぶりです」
「そうだな。最近見かけないと思ったら……その学ラン、転校したのか?」
「はい、桜上水に転入したんです」
「……あのまま3軍にいるよりは良かったのかもな」
は入部したときから1軍だ。
しかし今は副部長なのだから、2軍や3軍の現状も把握しているのだろう。
もしかしたら、もっと前から気付いていたのかもしれない。
3軍で、しかも風祭の身長では、武蔵野森でサッカーは続けられないことに。
「ごめんな」
「え?」
「天野たちのこと。俺が間に入るとややこしくなると思ってたけど、止めるべきだった」
「そんな!先輩は1軍で活躍しててお忙しいのに、」
1軍の、正レギュラーの発言力は大きい。
ましてや渋沢クラスの言葉ならば、コーチ陣も無視できないだろう。
部員たちにとって1軍というのは、憧れであると同時に畏怖の対象なのだ。
「実力社会なのがスポーツじゃないですか。武蔵野森の体制は長年の伝統だし、どうしようもないですよ」
なんとかして笑おうとしたが、声は震えてしまう。
たとえ理不尽であっても、秩序を変える力など風祭には無かった。
だから逃げ出した。
山川に責められ、蔑まれたように。
あんなに励まし合った仲間を裏切った。
「それに、今の学校に来て本当に良かったと思ってますから」
「そっか。桜上水って、1回戦でウチと当たるんだろ?よろしくな」
「こちらこそ、お、お手柔らかにお願いします!」
「おう。じゃ、またな?」
「はい!」
近くに居ながら、ずっと遠かった。
のように身長が高ければ、才能があればと嫉妬したこともある。
でも今はただ、この人の後輩だったことが誇らしい。
「それじゃ、失礼します」
「頑張れよ、風祭」
「ありがとうございます」
一度頭を下げてから、小柄な後輩は走り去る。
新品の学ランは、武蔵野森では異質に見えた。
「先月までは、同じブレザー着てたはずなのにな……」
正直いって、風祭と親しかったわけではない。
ろくに話した記憶もない、大勢いる後輩の内の一人だった。
1軍と3軍なんて、一緒にボールを蹴ることさえが無いに等しい。
それでも、同じサッカー部の仲間がひとり居なくなったことが寂しかった。
「」
「辰巳」
「日直終わったのか」
「ああ。相方休みの日に限って提出物多いから、マジ疲れた」
新しい教科書が来たかと思えば、健康調査票の提出。
春休みの課題だったドリル5教科分は、運び終えるまでに1時間近く掛かった。
「渋沢か三上に手伝ってもらえば良かったんじゃないのか」
「キャプテンが部活に遅れたらマズいだろ」
「そういうお前は副キャプテンだろうが」
「俺は不可抗力。ところでお前、わざわざ迎えに来てくれたのか?」
「今からミニゲームやるって監督が言ったから、それを伝えに来た」
「珍しいな、監督がメニュー変更するなんて」
教師に注意されない程度に廊下を走る。
風祭が消えた方向を振り返ることなく、走って行った。
- 6 -
「…………なんで、お前がここに居るんだよ」
「はとこと一緒にいちゃ悪いわけ?それと、俺の名前は翼であってお前じゃないんだけど忘れたの」
「はいはい、椎名だろ?覚えてるよ」
「はいは1回で良いんだけど」
「あー、もう玲さん。聞いてませんよ、こいつも居るなんて」
椎名の言葉を遮って抗議すると、妙齢の美女は優雅に微笑む。
昔から、彼女のこの笑みには勝てた試しがない。
「あなたに会うって私が言ったら、一緒に行くって言って聞かなかったから仕方なく連れてきたのよ」
「仕方なく、ですか」
「ええ。仕方なく、なの」
「……そうですか」
今回も、勝てなかった。
溜息を吐くの前に、西園寺が頼んでくれた紅茶が置かれる。
儀礼的にが微笑みかけると、ウエイトレスは顔を赤らめて下がった。
「相変わらずモテるのね」
「玲さんには敵いませんよ」
「そんな事はないわ。くんの顔は、人形みたいに整っていて綺麗だもの」
「もほとんど同じ顔してますけどね」
少なからず自覚はある。
異性からの視線にも慣れたし、告白されたこともあった。
南米やヨーロッパの女子は特に積極的だったな、なんて思いながら話を変える。
「ところで、勝小父さんはお元気ですか?」
「父はとても元気よ。今も若手育成に情熱を注いで、あちこち飛び回っているわ」
「玲さんは?現役から引退して少し経ちましたけど」
かつてLリーグでストライカーとして名を馳せた、彼女の引退を惜しむ声は多かった。
アメリカにでも行けば、西園寺の選手生命はもっと伸びただろう。
それでも敢えて日本に留まり、不十分な環境のなかで戦い続けた。
今のなでしこジャパンがあるのも、西園寺たちの活躍によるところが大きい。
「ヨーロッパにコーチ留学したって聞きましたけど、どうでした?」
「新鮮だったわ。同時に、日本の狭さを感じさせられた」
国土面積や心の話ではない。
島国であるがゆえの、鎖国的な風潮の話だ。
「高校総体や選手権どころの話じゃない。これからは、もっと世界へ出てみるべきよ」
西園寺の目が輝く。
強敵と対戦するとき、チームがピンチになったときに見せる輝き。
折れそうになる心を叱咤して、自らを奮い起こすときの目だ。
この眼をしているときの西園寺が一番美しい、とは思う。
そして改めて、彼女の強さを確信し、畏敬の念を抱いた。
ピッチから上がっても、西園寺はまだ走り続けている。
「ちょっと、二人とも俺のこと忘れてない?」
「忘れてないわよ」
「嘘だね。ばっか見ちゃってさ」
「なに椎名、焼きもち?」
「は?ば、ばっかじゃないの?!」
「翼、顔が赤いわよ」
「あきらっっ!!」
椎名の顔が赤く染まる。
普段はマシンガントークで他人を瞬殺するのに、西園寺相手には余裕がなくなるらしい。
「とりあえず座れよ。店中の注目浴びてるぞ」
「〜っ、わかってるよ、のくせに何なのさ!」
「何なのさって言われてもなー」
西園寺と会うときに一度もを連れてきたことがないのは、このためだ。
椎名と遭わせでもしたら、きっとうるさい。
西園寺は西園寺で、笑っているだけで止めやしないだろう。
「……あ、すいません玲さん。ちょっと用事を思い付いたんで帰ります」
「ええ、またね」
「ちょっと?!」
昔から、吠える小型犬は好きじゃない。
ヒステリーな怒声を聞き流し、は逃亡した。
了