宙 - sora -

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どうしてここに居るのか。
考えるより先に、口が動く。


「―そこの入口から入ってこいよ」
先輩?」


隣に立っていた笠井が上ずった声を上げる。
だけが全て解っているように頷いて、歩きだした。

芝を横切ることなく迂回してやって来る。
足を止めて、と対峙した従兄は、昔よりもずっと自分と似ていた。
たぶん、身長差がほとんどなくなったからだろう。


「渋沢、俺ちょっとコイツと話があるから」
「初めまして。のイトコでといいます。がいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ。……
「整理がついたら、ちゃんと話す」


自身、今の状況が把握できていない。
渋沢が頷いたのを見てから、を連れ出した。


「で、なにから話してほしい?」


寮の談話室に入るなり、は話を切り出す。
従兄は敢えてそうしたのだろうが、とりあえずもソファに座った。


「全部話せよ。ここに来た理由も……ブラジルに行った理由も、全部」
「じゃあ先にブラジル行きの話だな。―もともとは、俺も知らない間に進んでた話だったんだけど」


海外へのサッカー留学。
我が子に世界を見せるため、の伯父は密かに手続きを進めていたらしい。
本人が知ったのは、あの事故の2日前だったという。
両親を亡くし、残されたのは遺産と家に、ブラジル行きのチケット。
父の遺志に、背くことはできなかった。


「父さんさ、俺が強くなるなら日本を出て帰ってこなくても構わなかったんだって」
「日本を捨てても平気だってことか?」
「その表現で合ってんのかなー。でも、ふつう留学って期限つきのものだろ?」


しかしの場合は国籍を変え、半永久的に向こうへ移住することになっていたという。

おそらく、伯父は心のどこかでこの国を見限っていたのかもしれない。
成長期の少年たちを教えていて、その思いは大きくなったのだろう。
島国ゆえの、どこか閉鎖的な環境に絶望した。
そして、その中で育っていく教え子たちの、我が子の将来を危ぶんだ。


「このままじゃ世界と戦えない、W杯でも勝てない。強い選手が海外に流れて行くのもそのせいだって言ってた」
「だから、をブラジルに行かせたのか」
「多分な。ブラジルはサッカー王国だし……日本人とは、サッカーに懸ける気持ちが違うから」


王者としての誇り。
自尊心と飽くなき向上心が、より良い練習環境が選手を強くする。
日本では得られなかった、サッカーへの貪欲さと執着心を見せつけられた。


淡々と語る従兄は昔のままで、しかし別人のようにも感じられた。


「……楽しかったか?あっちは」
「辛いこともあったけど、得たもんはたくさんある。でも、何度かこっちに帰りたくなったな」
「なんでだよ。向こうでも10番もらって活躍してたんだろ?」
「実力がどうとかの問題じゃなくて。なんか、独りぼっちになったみたいで耐えられなかった」


弱音を吐くを、できれば見たくなかった。
そう思うのは我が儘かもしれないが、にとってはヒーローであり遠い存在だった。
今なら、手を伸ばせば触れられるかもしれない。
追いつきたいと思っていたはずなのに、どうして胸が苦しいのだろう。


「ごめんな、
「は?」
「本当はこんなこと言うつもりじゃなかったんだけど……やっぱに会うとダメだな、俺」


いつだって前を向いて走っていた従兄。
弱さなど決して持ち合わせていないのだと、どこかでそう思い込んでいたのかもしれない。
人間ならば傷つき苦しんで、悩むときが必ずあって当然だというのに。

輝かしい思い出と偶像が、音を立てて崩れた。


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自分とは違う焦げ茶の瞳を見て、なんとなく察することはできた。
なんで、どうして。
困惑した気持ちが渦巻いているのだろう。

背は大きくなっても、自身が変わっていなくて安心した。
いや、変わっていないのは自分も同じだろう。

そこまで考えて、ふと過去の記憶がよみがえる。
どうして自分は、何が理由で従弟と喧嘩したのだろう。
連絡を絶たれるくらいのことをしでかした記憶は全くないのだが。
が訊こうとするよりも早く、が口を開いた。


、」
「ん?」
「俺、今CBやっててリベロもしてるんだけど」
「うん」
「武蔵森入るとき、最初はやっぱりボランチになりたかった。それ以外のポジションなんて考えてなくて」
「……もしかして、俺がそれに賛成しなかったからスネたのか?」
「悪いかよ」


クラブチームでDFとしてキャリアを積んできたというのに、突然ポジションを替えると言い出した従弟。
叔父夫妻―つまりはの両親をはじめ、周囲の大人たちは当然猛反対してみせた。
それでもは聞く耳を持たず、唯一絶対味方してくれるだろう従兄のもとに逃げた。
ならば絶対に大人たちを説得してくれるであろうと期待を込めて。

だが、さすがのもこれだけは聞き入れられなかった。


「だってがボランチやりたかったのって俺のマネだろ?」


それを解っていながらの味方をしたら、きっとが怒られていたに違いない。
それだけは避けたくて叔父の側に付いたら、それ以来、と連絡がつかなくなった。


「あれが原因で拒否されるようになったわけ?そんなに根に持つことでもないのに……」
「だってお前、俺がボランチやったこともないのに無理だって決めつけただろ」
「いや、ほんとに無理だと思うけど」
「殴るぞ」
「なんでだよ。今はDFで武蔵森のレギュラーやれてるからいいじゃん」


しばらく会わないうちにすいぶん暴力的になったようだ。
両手を上げて降参すると、は脱力してソファに沈んだ。
勝手に怒って勝手に静まって、忙しい従弟だ。


「なんか話がズレたから戻すけど、いいか?」
「ブラジルに行ったとこからだよな」
「ん。……最初は色々あったけど、チームメイトとも意思疎通ができるようになった頃、あっちで初めて代表に招集されたんだ」
「15歳なってないのにいきなりU−17だったよな。ま、ノーマンは17歳でW杯デビューしたしな」
「それでも早すぎるって驚いたけどな。で、今度はU−19に呼ばれて入った」


あまりにも早すぎる出世だと周囲は驚き、そしてまるで自分のことのように喜んでくれた。
世代別代表のチームメイトたちも、年の離れたを弟のように、しかし対等に扱い、受け入れた。

未知の世界を駆けあがるのは楽しくて、同時に怖かった。
後ろを振り返る余裕もなく、無我夢中で突っ走った。

何も考えたくなかった。
ただ、ボールを追いかけていられたら、それだけで良かったのに。

ある日クラブチームで練習していたら、監督に呼ばれた。
告げられたのは、ナショナル代表の選考合宿に呼ばれたこと。
そしてそれは、明らかに次のW杯へ向けての召集だった。


「16歳で代表デビューなんて、やっぱり君はペレの再来だなんて先に騒がれてさ……さすがに怖くなったよ」
「なんで」
「ブラジルを背負う覚悟なんて、全くなかったから」


U−17やU−20と、フル代表でのワールドカップはやはり格が違う。
着慣れたはずのカナリアイエローのユニフォームが、やけに重く感じた。
期待や賞賛の目が、怖くなった。


「でも、ボールを蹴ってるときはやっぱり全力でプレーーしてて……気づいたら最終選考まで残ってた」
「それに受かったら代表入りする気だったのか?」
「選ばれた以上は期待に応えたかったしな。でも、日本に帰らなきゃいけない理由ができたから」
「理由って?何があったんだよ」
「傑が、後輩が死んだんだ」
「え、」
「去年、うちの親と同じように交通事故で。生きてたら、今は高校1年になってたのに」


日本を出る前に、中学での背番号10を譲った後輩。
互いに選抜の遠征が重なることが多く、ついに公式試合では一緒にピッチに立つことなく終わった。

だから、思い出せるのは練習中の真剣な表情。
帰り道、いつか日本にW杯を持って帰ると言ってみせた時の笑顔。
10番のユニフォームを手渡した時、その眼差しはどこまでも真っ直ぐだった。


「―迷うくらいなら、一度帰ろうと思った。日本に帰って、傑に会わないとって思った」


何もかもリセットして、自分のやるべきことを考えたかった。

立ち止まる勇気をくれた後輩は、もう居ないけれど。
だからせめて、


に会いたいな、って、そう思ったんだよ」

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