- お菓子のような、口付けを -
偶には、甘すぎるくらいの日常でも良いんじゃない?
「さん」
「ん?どーした準太」
次の時間は第二化学室に移動して、薬品反応の実験がある。
休み時間は10分しかないので、急いで2年の教室の前を通り過ぎ去ろうとするとする。
そんな時に名前を呼ばれ、は足を止めた。
準太は教室の窓枠に両手をついて身を乗り出している。
その向こうでは、の出現に頬を染めている女生徒の姿が見えた。
そんな女子を可愛いと思いながらも、は準太に視線を戻す。
ふわふわで綿菓子のような女の子より、エースピッチャーの野郎の方に気が向いてしまうのだから重症だ。
「、先行ってんぞ」
「オッケー」
和己に筆記用具一式と教科書を預けて、去っていくクラスメートたちに手を振る。
化学室はこの先の突き当りにあるから、ギリギリまで話し込んでいても、走れば間に合うだろう。
「さん、俺、パーム投げられるようになったんスよ」
「マジ?!自主練してたのか、すげーじゃん」
全くダブりはしないけれど、榛名の顔が思い浮かぶ。
褒められ、頭を撫でられるのを待っている大型犬の幼なじみも、やはり可愛かった。
榛名と同じように頭を撫でてやると、準太は照れたように笑う。
時折ふと見せてはの全てを奪う、あの男らしい切羽詰まった表情とは程遠い。
けれど、やはりの心を掴むだけの魅力はある。
「……俺も末期だな」
「え。さん、なんか言いました?」
「や、言ってない」
「そうっスか」
基本的に、準太は素直だ。
少なくとも、に対しては常に従順で捻くれていない。
呂佳や慎吾たちがどう喚こうとも、準太は可愛い後輩だ。
もちろん、それだけでは無くなりつつあるのだけれど。
「よーし。んじゃ、なんか昼にでも奢ってやるよ。ご褒美な」
「だったら食いもんじゃなくて、さんと二人っきりで飯くいたいっス」
「……ベタだな、お前」
「ベタですよ、俺」
随分と可愛いアプローチを仕掛けてくる準太に、は笑顔でお願いを聞きいれた。
「さーん」
「今行くー。じゃあ俺行くわ」
「おぅ」
「利央たちによろしくな」
いつもなら、たち3年生が準太や利央たちを迎えに行く。
上級生の教室というのは、下級生にとっては容易に近寄れる場所ではない。
3年の女生徒に囲まれるのをどうにか避けた準太は、嬉しそうにの名を呼んだ。
「ラブラブだねぇ」
「ラブラブっスよ」
山ノ井のニヤニヤ笑いにも怒らない。
それほどまでに、準太は幸せなようだ。
「どこ行く?」
「俺、良い場所見つけたんですよ」
笑顔を絶やさない準太に連れて行かれるままに、は校舎を出た。
「礼拝堂の裏?」
「ここって意外と日当たりが良いカンジなんです」
「へぇ、よく見つけたなー」
若葉の緑が美しい。
桜ではなく常緑樹が植えられているから、毛虫と遭遇する可能性も低い。
これで暖かく風通しが良いのだから、確かに良い場所だろう。
「ここなら人もあんま来ないしな」
「それが一番のポイントっス」
「は?」
「さんと、本当の意味で二人っきりになれますから」
「あぁ……」
自他共に認めるほどに、の顔は広い。
地毛ではあるがキャラメルブラウンの髪は目立つし、顔も良く、口も上手く下心はない。
女子は当然のこと、同性の男子からも人気はあるし、教職員とも挨拶を交わす。
廊下や校庭を歩けば、誰かに声を掛けられるのが当たり前だ。
けれど、ここでなら準太はを独占できる。
いつになく直球な準太に、は瞠目した。
「なんか珍しいな。準太がそこまで言うなんて」
「……昨日、素直な方が良いって、さん言ってたでしょ」
昨日、が迅に対して言った台詞を覚えていたらしい。
準太はから顔を背けた。
「どんな準太でも、俺は好きだけど?」
がそう呟くと、準太は弾かれたように顔を上げた。
今日は準太の表情がよく変わる日だ。
「……ベタっスね、さん」
「ベタだよ、俺」
は、手招きをして準太を呼び寄せた。
- そばにいるよ -
「さーん、お帰りなさいっ!」
門扉に手を掛けた時、背中に飛びかかってきた大型犬。
誰かなんて、振り向かなくてもわかる。
榛名が自分の帰りを忠犬よろしく待ってる事くらい、には簡単に予想が付いた。
「久しぶりだなー、元希。またデカくなったんじゃねーの?」
「マジ?サンに言われると本当な気がする」
頭を撫でてやると素直に喜ぶ姿は、飼い主に尻尾を振る犬を思わせる。
男に抱きつかれても嬉しくはないが、は抵抗する気が失せた。
門扉を開けて玄関に向かう。
家に榛名が居ても、両親は息子が増えたくらいにしか思わないだろう。
一緒に野球をしていた頃、練習の帰りに榛名がの家に寄るのはもはや日常だった。
「そういや高瀬はどんな感じ?調子いいの?」
「準太は……調整中だけど、まぁいいんじゃないの。元希も緑茶でいーだろ?」
「つーか、この家ポテチとかコーラってあんのかよ?」
「無いな。ウチ、緑茶に煎餅が定番だから」
「だろー?」
息を吹きかけてから茶をすするを見て、榛名は笑う。
「相変わらず猫舌なんだ」
「猫舌は一生かけても治らねーの」
「サン大袈裟すぎじゃね?」
「うるせーな、茶ァぶっかけるぞ」
「げ、それはヤだ!」
が湯呑みを振りかぶる仕種を見せれば、榛名は両手で頭をガードする。
中身は空で、しかもは実際に投げる気はない。
しかし榛名は大きな体を丸めて怯えている。
アホらしいやら可愛いやらで、は湯呑みを持った手を下げた。
代わりに煎餅を投げつけてみる。
「い゛っ?!」
「煎餅当たったくらいで大袈裟だろー」
「地味にいてェっつーの!」
「あーはいはい、ごめんって。……武蔵野、楽しいか?」
「は?まー、今は楽しい、かな」
「そっか、良かったな」
学校が違ってから、互いの生活も変わってしまった。
毎日メールでやり取りをしていても、分からない事はある。
野球部で上手くやっているなら、それで良かった。
榛名自身が決めた選択に間違いはなかったという事だ。
「甲子園は行けそうか?」
「どーだろ、今のままじゃ無理だろーけど」
「けど?」
「俺、サンを甲子園に連れてかなきゃいけねーじゃん」
「……だな」
が進学先に桐青を選んだ時、榛名はかなり反対した。
勝手に進路を決めた事よりも、ユニフォームを脱ぐ事の方が許せなかったのだろう。
トレーナーなんて認めないと言って、榛名はの出立を見送りもしなかった。
なんとなく喧嘩別れをして、甲子園の地方予選が始まった頃。
久しぶりに、榛名からのメールが届いた。
“俺がサンを甲子園に連れてってやるから待ってて”
句読点も改行もない文面は、 2年近く経った今も携帯の中で保護してある。
「まずは甲子園に連れてって、プロになったらサンにシーズンシートやるよ」
「シーズンシートは未来のファンの為に予約してやれよ」
「だって、サンが居なかったら俺野球できなくなってたかもだろ」
「お前なら野球を選んだだろ?どんな時でもさ」
「けど!見てて欲しいんだ、サンに」
特等席でなくたって、ずっと見ていてやるのに。
そう思いながらも、は頷くだけにしておいた。
了